福岡から車で約1.5時間、佐賀・呼子のTHREE蒸留所を訪ねて分かったのは、「香りの値段の正体は、手間と時間そのものだった」ということです。苗づくりから蒸留まで自社で行い、蒸留に24時間かかる香りほど長く肌に残る。たった1度の温度差で香りは分解される。こうした話を、驚くほどの熱量で語ってくれるスタッフさんに出会えたことが、この旅最大の収穫でした。さらに、教わったかき氷・クラフトビール・サウナまで、この港町は「香り」で驚くほど深くつながっています。香りに興味があるなら、遠回りしてでも行く価値のある場所でした。
佐賀県唐津市呼子町にある「THREE Aroma Distillery(スリー アロマ ディスティラリー)」を訪ねました。あのTHREEが、空き家だった古民家を改装してつくった精油の蒸留所です。自社の畑で育てたハーブから、実際に香りが生まれていく——その現場を、この目で見られると聞いたからです。実際に見てみたいと思った私は、車を走らせました。

写真撮影の許可を頂きました。
〒847-0303 佐賀県唐津市呼子町呼子3769番1
〈アクセス〉
JR唐津駅から車で30分 / 福岡空港から車で90分
営業時間:平日 9時~15時、休日・祝日 9時~17時
定休日:火曜日・水曜日・木曜日・年末年始
灼熱の呼子へ。福岡から1.5時間、”香りが生まれる港町”を目指して
香水と聞くと、正直これまでの私は「おしゃれな人が付けるもの」「自分にはちょっと縁のない世界」くらいの距離感で生きてきました。そんな香りの初心者が、なぜか炎天下の港町まで車を走らせることになったのです。
目的地は、佐賀県唐津市呼子町にある「THREE Aroma Distillery(スリー アロマ ディスティラリー)」。あのコスメブランドTHREEが、2025年の秋に古民家を改装してオープンさせた精油の蒸留所です。
「香りが生まれる、まさにその現場を見られる」——そう聞いただけで、なんだかワクワクしてくる。この章では、まず私がその場所に辿り着くまでの、ちょっと情けない道のりからお話しさせてください。
お城を横目に、道を間違えながら辿り着いた35度の町

出発したのは、朝の8時00分ごろ。カーナビには「福岡市内から1時間ほど」と表示されていて、「近いじゃないか、これは楽勝だな」と完全に油断していました。ところが、ナビがさす道はどうやら山道。「せっかく海沿いの町に行くんだから、やっぱり海でしょう」と、私は勝手に海ルートへ舵を切ったのです。
これが判断ミスでした。結果、30分以上の大きな遠回り。とはいえ、道中で「おお!こんなところに大きな工場があるぞ!」と知らない景色に出会うたび、まるで探検でもしているような気分になって、それはそれで悪くなかったのですが。
途中、堂々とそびえる唐津城を横目に通り過ぎ、「おお、旅行っぽい」と一瞬テンションが上がったのも束の間、結局あれこれ寄り道した挙句、到着したのはほとんど10時。この時の私は、まさかこの町のお店が13時にはほとんど閉まってしまうなんて、まったく知る由もありませんでした。
車を降りた瞬間、じりっと肌を焼くような日差しと、潮の匂いが一気に押し寄せてきます。気温はなんと35度。マーケティングの仕事柄、私は「わざわざ足を運んでもらう場所には、それだけの理由がいる」と常々考えているのですが、この時点ではまだ、その”理由”の正体を何ひとつ分かっていませんでした。
13時には閉まるお店たち。時間の流れが違う漁師町の洗礼

呼子に着いてまず面食らったのが、時間の流れ方でした。この町の中心にある「呼子朝市」は、日本三大朝市のひとつに数えられる名物なのですが、その営業は朝の7時半から昼の12時まで。
つまり、私が普段「さあ、ランチでもしながらゆっくり見て回るか」と考える時間帯には、もう店じまいが始まっているのです。実際、朝市通りのお店の多くは12時から13時にかけて次々とシャッターを下ろしていきます。
福岡の街なかの感覚で「午後からのんびり」と構えていた私は、これに完全に出遅れました。「え、もう閉まるんですか」と内心あたふたしながら、慌てて足を速める始末です。でも、考えてみればこれは当たり前のこと。相手は漁師の町。夜明け前から動き、太陽が高くなる頃には一日の”本番”を終えている。
都会のカレンダーとはまったく別の時計で回っているのだと、じわじわ実感しました。この「時間の文化が違う」という感覚こそ、実はこの旅を通じていちばん心に残った学びのひとつになっていくのですが、その話はまた後ほど。
ただの工場見学のつもりが……扉の奥に”お店”があった

正直に白状すると、私はTHREEの蒸留所を「精油をつくっている工場」だと思い込んでいました。だから頭の中は完全に”工場見学モード”。まずは外の大きなガラス窓から、入り口にどんと構える大きな蒸留器を「へえ、こうやって精油ができるのかあ」と、社会科見学のような気持ちで覗き込みます。
すると、まだ中に入ってもいないのに、ふわりとハーブのような香りが漂ってきました。その香りに誘われるように、のこのこと古民家の階段を上がっていったのです。
ところが、その奥に広がっていたのは、洗練された商品がずらりと並ぶ空間でした。「あれ、これただの工場じゃない。お店あるじゃん」——思わず心の声が漏れます。あとで知ったのですが、ここは長年空き家だった古民家をリノベーションし、蒸留の現場を”見て・香って・体験できる”場所として生まれ変わったのだそう。
そしてもうひとつ、私を驚かせたことがありました。さっきまで1階の下で作業をしていたはずの女性スタッフさんが、気づけば2階の店舗にすっと立っているのです。それも、まったく息を切らせた様子もなく。「え、いつの間に……能力者か?」と本気で思ってしまうほどの、あざやかな”瞬間移動”でした。作り手の想いと人の気配が同居するこの空間で、香り初心者の私の”常識”は、ここから次々と塗り替えられていくことになります。
香水初心者の私が、”精油が生まれる現場”で受けた最初の衝撃

画像引用:南阿蘇 ハーブ栽培の始まり
工場だと思っていた場所が、実は香りを五感で味わう空間だった——その驚きの余韻が冷めないうちに、スタッフさんが一本一本、丁寧に香りを紹介してくれました。ここで語られたのは、単なる商品説明ではありません。「この香りは、どこの畑で、どんなふうに育てられ、どうやって一滴になったのか」という、香りの”生い立ち”そのものでした。
マーケターとして「モノの背景を伝えることの強さ」は理屈では分かっていたつもりの私ですが、それを香りで、しかもこれほど自然に体感させられるとは思ってもみませんでした。この章では、現場で受け取った最初の衝撃を、そのままお届けします。
苗づくりから蒸留まで自社で。香りを「育てる」という発想

まず教えていただいて驚いたのが、ここTHREEの香りづくりの徹底ぶりです。なんと、精油の原料となるハーブを育てるための「土づくり・畑づくり」から自社でスタートしているというのです。佐賀をはじめ、熊本や広島にも自社のハーブガーデンを持ち、そこで育てた植物を、畑からほど近いこの呼子の蒸留所へ運び込む。
そして採れたてのフレッシュな状態で蒸留し、生まれた精油が商品へと入っていく——という一気通貫の流れなのだそう。「苗つくりから収穫、蒸留、研究まで」。それがこの場所のモットーだと聞いて、思わず唸ってしまいました。
私はこれまで、香りというものを「どこかで完成された、いい匂いの液体」くらいにしか捉えていませんでした。でも実際は、その一滴の裏に、土を耕し、植物と対話し、季節と向き合う膨大な時間が積み重なっている。
スタッフさんが「育てている植物と対話をしながら、丁寧に抽出しているんです」と話してくださったとき、香りが”製品”ではなく”作物”のように思えてきたのです。マーケティングの視点で言えば、これ以上に強い物語はありません。でも、そんな計算を抜きにしても、「香りを育てる」というその発想そのものに、純粋に心を動かされてしまいました。
年に一度のユーカリ蒸留という、奇跡みたいなタイミング

さらに、この日の私はとんでもなくラッキーだったようです。というのも、訪れたまさにその日、蒸留所ではユーカリの蒸留が行われていたのです。スタッフさんいわく、この蒸留所で主に蒸留されるのはローズマリーやタイムといった樹木系のハーブで、それらは年に何度も蒸留の機会がある。ところがユーカリは、なんと年に1回ほどしか蒸留しない、かなりレアな存在なのだとか。「今日はちょうど、そのユーカリを蒸留している珍しい日なんですよ」と聞いて、思わず「え、そんな日に当たっちゃったんですか!」と声が弾みました。

そして、ここで私はちょっと恥ずかしい失敗をやらかします。「ユーカリ」と聞いた瞬間、私の頭の中では「まかせろ、それくらいは知っている。コアラのやつだな」と謎の自信が湧き上がっていました。そしてほぼドヤ顔で、「ユーカリって、コアラが食べてるやつですよね?」と言い放ったのです。
すると返ってきたのは、「そうなんですけど、コアラが食べる種類とはちょっと違って、これはグロブルスという種類なんです。ユーカリグロブルスは非常に大きく成長して、100メートルまで達するものもあるみたいですよ」という一言。あまりに軽やかに知識の上をいかれてしまい、その場に笑いが起きました。得意げに出したこちらの浅い知識を、はるかに上回る深さで、しかも笑顔で受け止めてくれる。そのおかげで、それまで「なんとなくスースーする匂い」くらいの認識だったユーカリが、急に一人の”個性を持った植物”として立ち上がってくるような感覚がありました。年に一度の蒸留に立ち会えたという事実も相まって、この日の香りは、私の記憶にしっかりと刻み込まれたのです。
「その日の気分で選んでいい」。香りに正解はないと教わる

香りを順番に嗅がせていただく中で、私はつい「初心者なので、どれを選べばいいのか正解が分からなくて」と弱音を漏らしました。すると返ってきたのが、目からうろこの一言です。「その時の気分だったり、体調とか気温で、心地よく感じる香りは全然変わるんですよ」。つまり、香り選びに絶対の正解なんてなく、その日の自分にしっくりくるものを選べばいい、というのです。
たとえば、と続けてくれた説明がまた腑に落ちました。夏場に人気なのは、風をイメージした爽やかな香り。一方で、同じ「リラックスしたい」でも、幸福感に包まれるような香りもあれば、すっと頭を切り替えてくれるような香りもある。「気持ちを切り替えたいときはこちら」「一日の終わりや、ひと息つきたいときはこちら」と、シーンごとに寄り添う香りを示してくれるのです。実際に嗅ぎ比べてみると、不思議なことに、香りごとに違う情景がふっと頭に浮かんでくる。「これ、すごい。ちゃんとシーンが想像できる」と、私はすっかり夢中になっていました。香りとは、正解を探すものではなく、その日の自分と対話するための道具なのかもしれない——初心者なりに、そんな発見をした瞬間でした。
トップノート、品質、24時間。プロの一言で香りの世界が急に立体的になった

香りを「その日の気分で選べばいい」と教わって、すっかり肩の力が抜けた私。すると今度は、これまで呪文のようにしか聞こえていなかった香水の専門用語たちが、急に気になり始めました。「トップノートって、そもそも何なんだろう」「同じ原料なのに、どうして値段が全然違うんだろう」。恥を承知で次々ぶつけた素朴な疑問に、スタッフさんは一つひとつ、まるで香りの地図を広げるように答えてくれます。この章では、そのやりとりを通じて、香りの世界が私の中で一気に”立体的”になっていった瞬間をお伝えします。
なぜトップノートは柑橘系ばかりなのか、という素朴な疑問
香水の裏側に「トップノート」という言葉が書かれているのを見つけた私は、「これって、あんまり深く考えなくてもいいものなんですか?」と、なんとも間の抜けた質問をしてしまいました。ところが、返ってきた説明が実に面白かったのです。トップノートというのは、つけた瞬間にまず立ち上がる、最初の香りのこと。そして自然界の香りでこの役割を担うのは、どうしても柑橘系が多くなるのだと言います。理由は、柑橘の香りが「高く香るけれど、持続は短い」という性質を持っているから。ふわっと華やかに立ち上がって、すっと消えていく。だからこそ、香りの”つかみ”にぴったりなのだそうです。
言われてみれば、レモンやオレンジの香りって、嗅いだ瞬間はぱっと鮮やかなのに、気づけばどこかへ消えている。あの儚さには、ちゃんと理由があったわけです。そして、その柑橘が消えたあとに、じんわりと奥から現れてくるのが、土っぽい香りや木の香りといった「立ち上がりは弱いけれど、長く続く」重たい香りなのだとか。つまり香水とは、時間の経過とともに主役が入れ替わっていく、一種の物語のようなもの。「そういう風に香りが変化していくんですよ」と聞いた瞬間、それまで一枚の平面にしか見えていなかった香りが、時間という奥行きを持って、ぐっと立体的に見えてきたのです。
蒸留に24時間かかる香りほど、長く残る理由

トップノートの話でスイッチが入った私は、「じゃあ、その”長く続く重たい香り”って、どうしてそんなに長持ちするんですか?」と、さらに食い下がりました。すると、蒸留の話にまでさかのぼって教えてくれたのです。香りの原料の中には、蒸留するのに24時間もの長い時間がかかるものがあるのだそう。そして、そうやって「出てくるのが遅い香り」というのは、空気中へ揮発していくスピードもゆっくりで、結果として長く香りが残るのだと言います。
これには思わず膝を打ちました。逆に、さっと蒸留できて、さっと出てくる香りは、空気中へ発散していくのも早いから、香りの持続も短くなる。トップノートの柑橘が”儚い”のも、まさにこの理屈だったわけです。蒸留にかかる時間と、香りの持続する時間が、こんなにもきれいに結びついているなんて。
マーケターの私は、つい「作り手のかける手間と時間が、そのまま体験の深さに直結している」という構図に置き換えて感心してしまいました。ちなみに、あるルームフレグランスについて「今の季節は温度も湿度も高いので、持続はいつもより短めで3時間くらいかもしれません」と正直に教えてくれたのも印象的でした。都合のいいことばかり並べない。その誠実さが、かえって深い信頼につながっていくのを感じました。
同じベルガモットでも値段が違う。「品質」って何のこと?

もうひとつ、私がずっと不思議に思っていたのが「値段の差」でした。「原料によってお値段が結構違いますけど、あれって、ちょっとしか採れないとか、そういう理由なんですか?」と尋ねてみると、ここでもまた、奥深い答えが返ってきます。例に挙げてくれたのはベルガモット。同じベルガモットでも、品質のよいものになると、香りそのものが変わってくるというのです。品質の高いものはグリーンで青みのある香り、そうでないものは少しフルーティーで果実っぽい香りになる、と。
さらに驚いたのが、抽出方法の話です。一般的なのは熱を加えて蒸留する方法なのですが、熱を入れると、繊細な香りが「熱のダメージ」を受けてしまうことがあるのだそう。高温になり過ぎると香りそのものが分解されてしまい、とりわけ柑橘系はこれがとても難しいのだと言います。
だからこそ、あるベルガモットは圧搾という方法で、しかも国内のごく限られた場所で丁寧に抽出している——その一手間が、香りの透明感を守り、価値の違いを生んでいるわけです。「なるほど、それを”品質”って言うんですね」と、私はもう完全に感心しきりでした。(余談ですが、この「たった1度の温度差で香りが大きく変わる」という話、実はこのあと立ち寄ったクラフトビールの醸造所でも、所長さんがまったく同じことを語っていました。畑違いの作り手が同じ真理にたどり着いているのを見て、鳥肌が立ったのを覚えています。)正直、この日ここへ来るまで、私は香りの値段を「ブランド料みたいなもの」だとどこか斜に構えて見ていました。
でも実際は、育て方も、採れる量も、抽出のひと手間も、すべてがあの一滴に凝縮されている。
ここまで読んでくださった方は、もうお気づきでしょう。このスタッフさんの知識量、正直言って”化け物級”なのです。畑のこと、蒸留のこと、温度と香りの関係まで、どんな素人質問を投げても、必ずその奥にある物語ごと返してくれる。……ですが、私が本当に度肝を抜かれたのは、実はこのあとでした。
「THREEの店員さんに聞いて来ました!」が、魔法の合言葉になった
香りの知識で私を何度もうならせたスタッフさん。でも、本当に度肝を抜かれたのは、香りの話が一段落してからでした。「このあと、どこか回られるんですか?」という何気ない一言をきっかけに、彼女は呼子という町そのものの”案内人”に変身したのです。それは、もはや一介の販売員の域を超えていました。この章では、私が思わず「プロってこういう人のことを言うんだ」と唸ってしまった、その”神対応”の正体をお伝えします。ここを読んでいただくと、このあと登場するお店たちが、なぜどこも私を温かく迎えてくれたのか、その理由まで分かるはずです。
ドラえもんのポケットみたいに、出てくる出てくる周辺情報
「せっかくなら、ここも行ってみてください」——そう言うが早いか、スタッフさんの手元からは、次から次へと周辺のお店のパンフレットやチラシが出てくるのです。かき氷、クラフトビール、サウナ、食堂、民泊……。まるでドラえもんが四次元ポケットから道具を取り出すように、話題が変わるたびに新しい紙が繰り出されてくる。私はただ「香りが生まれる現場を見たい」と思って来ただけなのに、気づけば呼子まるごと一日分の観光プランが、目の前でどんどん組み上がっていくのです。
しかも、それぞれの説明が驚くほど具体的でした。「かき氷なら1日10食限定のものがあって、土日は午前中で終わっちゃうんです」「サウナは受付でソフトドリンクを頼めて、それを飲んでから入ると汗の出方が全然違いますよ」——といった具合に、どの情報も”実際に行った人”にしか語れない解像度なのです。正直、私は最初「なんて商売っ気のない人だろう」と思いました。自分のお店の商品を売るより、町全体の楽しみ方を伝えることに夢中になっている。でもそれこそが、結果的にこの蒸留所を「また来たい場所」にしている——マーケター目線でも、これは唸るしかない光景でした。
「自分で体験したから話せる」。ディズニーのキャストさんかと思った
案内を聞いているうちに、私はあることに気づいてハッとしました。彼女の語る情報は、どれもこれも”人から聞いた話”ではなく、”自分で足を運んで確かめた話”なのです。かき氷の味は季節ごとに日替わりで変わるから、同じメニューでも2回は食べに行くようにしている。サウナは季節を変えて何度も通い、「夏はこうなるんですよ」と実感を持って語れるようにしている。お客さんにきちんと伝えるために、自分自身が誰よりもその町を味わい尽くしている——その姿勢に、私は心底しびれてしまいました。
さらにすごいのが、その体験が一度きりではないこと。何度も通っているからこそ、「この時期ならこれ」「この天気ならこっち」と、まるでパターン化された引き出しから最適解をすっと出してくる。その淀みのなさは、もはやテーマパークのキャストのようでした。ディズニーランドのキャストさんが、どんな質問にも笑顔でよどみなく答えてくれる、あの安心感。それとまったく同じ質のホスピタリティが、この佐賀の港町の小さな蒸留所にあったのです。ちなみに——念のため補足しておくと、これはたまたま私が訪れたのが、他にお客さんのいない空いた時間帯だったからこそ、ここまでじっくり相手をしていただけた面もあります。混み合う時間帯には、さすがにここまでの”独占”は難しいかもしれません。それでも、あの熱量と知識の深さは、時間帯を差し引いても本物でした。
そこまで案内されて、そのまま帰れるわけがない

ここまで丁寧に、しかも愛情たっぷりに町の魅力を語られてしまったら、もう「はい、精油だけ見て帰ります」なんて言えるはずがありません。私はすっかりその気になって、「よし、教わったところを時間の許す限り全部回ろう」と心に決めていました。灼熱の35度も、13時にお店が閉まるという焦りも、この時にはもう、旅の醍醐味の一部に変わっていたのです。
そして、ここからが面白いところ。教わったお店に飛び込んで「THREEの店員さんに聞いて来ました!」と伝えた瞬間、空気がふわっと変わるのです。それまで初対面だったはずのお店の方が、まるで昔からの知り合いのような顔になって、あれこれ気さくに教えてくれる。「ああ、あそこの子ね!」という温かい反応とともに、初見の私が、まるで常連さんのように町へ迎え入れられていく。あの合言葉は、単なる紹介ではなく、この港町の人と人とのつながりへの”通行証”だったのだと思います。というわけで次章からは、その通行証を握りしめた私が実際に飛び込んだ、香りにゆかりのあるお店たちを、一軒ずつご紹介していきます。
【THREEスタッフ激推し】香りでめぐる、呼子朝市通りのお店たち
“通行証”を握りしめた私が向かったのは、スタッフさんが熱を込めて教えてくれたお店たち。面白いのは、そのどれもがTHREEの蒸留所と同じように「香り」と深く結びついていたことです。果実の香りに全振りしたかき氷、バナナが香るクラフトビール、そして精油のロウリュで整うサウナ。実はこれらのお店、バラバラに点在しているのではなく、「鯨の町興し」という一つの町おこしプロジェクトの仲間たちなのだと、あとから知りました。香りという糸で、この港町がゆるやかにつながっている——そんな発見も含めて、一軒ずつご案内します。
果実の香りに驚く「甚六果実店」のかき氷
最初に飛び込んだのは、朝市通りにある「甚六果実店(じんろくかじつてん)」。ここは、唐津・呼子でとれる旬の果実を主役にしたかき氷の専門店です。店名の「甚六」は、その昔この地で捕鯨を担っていた鯨組の当主・中尾甚六さんに由来するのだそう。
歴史ある古民家を改装した店構えは、それだけで気持ちが高まります。スタッフさんに「1日10食限定のものがあって、土日は午前中で終わっちゃうんです」と念を押されていたので、私は着くやいなや一目散。入店するなり「桃のやつ、ありますか?」と尋ねると、「あと1個だけですよ」との返事。すかさず「それください!」とお願いしました。
すると、お店の方がちょっと不思議そうな顔で「え、誰に聞いたの? それ、メニューには載せてないのに、入ってすぐ頼むなんて」と笑うのです。そう、この桃のかき氷は、まさにスタッフさんが「1日10食限定」と教えてくれた、あの幻の一皿だったのでした。

運ばれてきたのは、桃にゼラニウムのミルクを合わせた一皿。ゼラニウムといえば、まさに先ほどの蒸留所でも主役級だった香りです。果実の甘さの奥から、ふわりと花のような香りが立ち上がってきて、「え、かき氷でこんな体験ができるの?」と思わず声が漏れました。ほかにも甘夏やメロン、スイカと、季節ごとに顔ぶれが変わり、味は日替わり。

だからこそスタッフさんも「何度も通わないとお伝えできない」と言っていたのだと、ここで合点がいきました。そして何より嬉しかったのが、あの山盛りのかき氷を食べても、まったく頭がキーンとならなかったこと。素材と作り方への丁寧さが、こんなところにも表れているのだと感心しきりでした。
「甚六果実店」インスタグラム:https://www.instagram.com/jinrokukajitsuten/
Whale Brewingバナナが香るクラフトビールと、濃厚チョコの意外すぎる相性

続いて向かったのは、2023年にオープンしたというクラフトビールの醸造所Whale Brewing。なんとここ、イカの活き造りで有名なあの「河太郎」が手がけているというから驚きです。港町の名店が、なぜクラフトビール? その意外な組み合わせにワクワクしながら、タップルームへ足を踏み入れました。
ここで迎えてくれた所長さんが、これまた只者ではありませんでした。なんと政府系の金融機関のご出身とのことで、ビール酵母の話を、それはもう情熱的に教えてくださるのです。しかもこのクラフトビール、製造を始めてわずか1.5ヶ月で銀賞を受賞したという、とんでもない実力の持ち主なのだとか。

所長さんが勧めてくれたのが、バナナのような香りがする、ちょっと変わったビール。「これ、実は濃厚なチョコレートと合わせると最高なんですよ」というのです。ガトーショコラやフォンダンショコラのような、しっかり濃厚なチョコレートと合わせると驚くほど調和するのだとか。バナナとカカオは、香りのレイヤーで考えればむしろ相性の良い間柄なのだと聞いて、妙に納得してしまいました。
そして冒頭でも触れた通り、この所長さんも「温度がたった1度違うだけで、味も香りも大きく変わる」と語っていて——これはまさに、蒸留所のスタッフさんがベルガモットについて話していたことと寸分違わぬ真理。香りをつくる人たちは、分野が違っても同じ繊細な世界の住人なのだと、鳥肌が立ちました。

そして、ここで白状しなければなりません。実は私、お酒がほとんど飲めない体質なのです。普通のビールを一口飲むと、寒気がして具合が悪くなってしまうほど。それなのに——気づけば4ケースも買い込んでいました。
試しにその日の夜、自宅で飲んでみたのですが、このビールだけは、飲んでも寒気がしないどころか、むしろ体がぽかぽかと熱くなる感じで、生まれて初めて一杯を飲み切れたのです。「アルコールは自分には無理」とずっと思い込んでいた私が、です。これには自分がいちばん驚きました。香りといい、飲み心地といい、この一杯は私の”思い込み”をまた一つ、気持ちよく壊してくれたのでした。
Whale Brewingインスタグラム:https://www.instagram.com/whale_brewing/
精油のロウリュで”整う”、JIN6サウナ×中尾甚六HOTEL
最後に向かったのが、「JIN6サウナ」と「中尾甚六HOTEL」。残念ながらこの日は時間が足りず、中までじっくり見ることは叶わなかったのですが、外観を眺めるだけでも心を掴まれました。特に、建物の外にしつらえられた水風呂が、とにかくかっこいい。目の前に広がる海へそのままダイブするような感覚が味わえそうで、外から見ているだけで胸が高鳴りました。
ここは元々イカ屋さんだった建物を再利用してつくられたそうで、クジラの町おこしプロジェクトらしい遊び心が、そこかしこに息づいています。
そして香り好きとして何より見逃せないのが、ロウリュです。なんとここでは、THREEの調香師が呼子のためだけに開発したオリジナル精油「呼子朝市通りブレンド」を使ったロウリュが楽しめるのだそう。佐賀県産のローズマリーやティーツリーがブレンドされた、山と海の自然を思わせる爽やかな香り。
ととのいの瞬間に、あの蒸留所で生まれた香りが立ちのぼってくるなんて、これ以上の贅沢があるでしょうか。今回は外観を目に焼き付けるだけで精一杯でしたが、心はもう決まっています——次は必ず、このホテルに泊まりに来る。香りが生まれる蒸留所と、その香りに包まれて整うサウナ。
この町では、香りが人の手から手へと受け渡され、ちゃんと循環している。その輪の中に、次はもっと深く身を浸しに来ようと、固く心に誓ったのでした。
JIN6インスタグラム:https://www.instagram.com/nakaojinroku_hotel_sauna/
帰り際に感じた「千と千尋」の正体。賑わいが消えた港町の余韻
香りの蒸留所から始まり、かき氷、クラフトビール、サウナと、教わるままに駆け抜けた呼子の一日。その終わりに、私はこの旅でいちばん忘れられない光景に出会うことになります。それは、けっして観光パンフレットには載らない、けれど確かにこの町の”本当の姿”だと感じられる瞬間でした。灼熱と静けさ、賑わいと余韻。相反するものが同居するこの港町を、最後まで見届けた記録を、そっと綴らせてください。
13時を境に、潮が引くように人が消えていく

到着した午前中、朝市通りには人が集まり、独特の活気がありました。露店のおばちゃんの声が飛び交い、観光客が行き交い、町全体がひとつの生き物のように脈打っている。ところが、13時を過ぎたあたりから、その空気が一変します。まるで潮が引いていくように、あれだけいた人が、すうっといなくなっていくのです。
ふと足を止めて振り返ると、さっきまでの賑わいが嘘のように、通りには誰もいない。照りつける太陽と、白く焼けたアスファルトと、自分の影だけがそこにある。その光景に、私は不意に、あの映画のワンシーンを思い出しました。宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」。千尋たちが迷い込む、あの誰もいない街並みの、どこか現実離れした静けさ。賑わいと無人が、こんなにも短い時間で入れ替わる町を、私はほかに知りません。時間の文化が違う——この旅の最初に感じたあの違和感が、最後にこうして、忘れがたい情景として立ち上がってきたのです。
廃墟のような銭湯、静かな神社。ここは昔どんな街だったんだろう

誰もいなくなった町を歩いていると、その”物語性”はさらに濃くなっていきました。かつて銭湯だったと思われる、今は静かに佇む建物。ひっそりと続く石段の先にある、人けのない神社。どれもが、この町がかつて確かに賑わっていた時代の名残を、そのまま留めているように見えました。
「賑わっていた頃、ここはいったいどんな街だったんだろう」——歩きながら、私は自然とそんな想像を巡らせていました。イカ漁で栄え、たくさんの人が行き交ったであろう往時の呼子。その面影と、今の静けさが重なって、なんとも言えない郷愁のようなものが胸に広がります。THREEの蒸留所も、甚六果実店も、サウナも、みんな古民家や空き家を再生してつくられたお店でした。つまりこの町は今、かつての賑わいを、新しいかたちでもう一度呼び戻そうとしている真っ最中なのだと思います。過去と未来が、この静かな昼下がりに、そっと同居している。そう思うと、この余韻さえも、この町からの贈り物のように感じられたのです。
イカという名の”お守り”を握りしめて

そして、この旅を締めくくる最後の出会いが待っていました。誰もいない灼熱のアスファルトの上に、ぽつんと、一人のおばあちゃんがイカを売っていたのです。その姿は、まるで「千と千尋」に出てくる湯婆婆の双子の姉・銭婆を思わせる、どこか不思議な存在感をまとっていました。無人の通りに、静かにイカを並べるその姿に、私は吸い寄せられるように、思わず声をかけていました。すると向こうも、「どこから来たの? イカ、いらないかい?」と。
こうなると、もう買うしか選択肢はありません。というより、買いたくなってしまうのです。「わかった、これ全部買うよ」——そう伝えると、おばあちゃんはにっこり笑って、オマケだと言ってたくさんのイカをどっさり持たせてくれました。その瞬間、私は確信しました。ああ、これは完全に「千と千尋」だ、と。
物語のラスト、千尋は湯婆婆の世界から現実へ帰る”お守り”として、髪留めを握りしめていました。だとすれば、さしずめ私にとってのそれは、このイカだったのでしょう。香りに始まり、人の温かさで終わったこの一日。手のひらにずっしりと残るイカの重みは、呼子という不思議な港町が確かに実在したことを証明する、何よりのお守りになったのです。福岡へ帰る車の中、私はまだ、あの蒸留所のハーブの香りと、おばあちゃんの笑顔の余韻の中にいました。
香りは記憶に宿るといいます。きっと私はこの先、ふとイカの匂いを嗅ぐたびに、この灼熱の一日を、まるごと思い出すのでしょう。
